光にも似た



 ベランダの植木が枯れていた。
 葉は全て落ち、枝もしおれて見る影もない。ぼくはしばらくその朽ち果てた鉢植えをぼんやりと眺めていた。

 冬が終わり、突然の雨に振り回された3月も過ぎ、季節はすっかり春に移っている。その間ぼくはただの一度もベランダの鉢植えを気にかけていなかったのだ。それどころか彼女が大切に育てていた植物の名前すら知らない。それはすなわち彼女に対する関心の低さであり、振られて当然だと言える。

 時計は午前8時を指していた。寝ぼけた頭を覚ますためにバスルームに向かう。
 普段であればとっくに事務所に顔を出している時間帯だ。むしろ執務室に寝泊りする日の方が多い。昼も夜もなく働く生活に慣れているせいか、突然与えられた休日にぼくは明らかに戸惑っていた。

「まいったな。こんなにも時間の使い方がわからなくなっているなんて」

 シャワーを浴びてカッフェを飲む。新聞に軽く目を通すともうやることがなくなった。手持無沙汰でテレビをつけるものの、平日の午前中に目ぼしい番組などない。ずいぶん前に買って放置していた文庫本をぱらぱらと捲った。

 正午近くになり、空腹を感じて冷蔵庫を開けてみるが当然のように何もない。仕方なく着替えて自宅を出た。
 馴染みの店は全て事務所の近くで、ミスタやフーゴや他の部下たちと遭遇する率が高い。彼らがぼくのために捻出してくれたせっかくの休日だ。どうせなら見知らぬ店に入ってみよう。そう思って普段はあまり行かないヴォメロ地区の方へと足を向けた。


『ちょっと、やめてください!』

 モンテサント駅を過ぎて緩やかな傾斜の石畳を歩いていると、イタリア語とは違うイントネーションが飛び込んできた。
 久しぶりに聴く日本語に興味を引かれて振り向けば、長い髪の少女が地元の少年たちに絡まれていた。

「おまえチネージか?オレたちと遊ぼうぜ」
『やめて、離して』
「ジャッポーネだろ、こりゃカワイイぜ」

 街から麻薬が消えたことにより、ネアポリスの治安は著しく向上した。
 貧しく物騒な街、とのレッテルも最近では消えつつあるがそれでも他の地区に比べれば犯罪件数は格段に多い。
 そしてその大半が低年齢層によるもので、うち三割は巡邏中の警察の目を盗んで白昼堂々と行われる。

『やめてって言ってるでしょ!触らないで』
「騒ぐんじゃあねえッ」
「その手を離せ、嫌がっているじゃあないか」

 見かねて止めに入ると少年の一人がナイフを取り出した。

「ジャマすんなよ、死にてーのかッ!」
「オレたちゃヴェルさんの弟分だぜ、この界隈でオレたちにたてつくなんてとんだマヌケヤローだなッ」

 地元民が警察も呼ばず、遠巻きに眺めていた理由がわかった。
 ヴェルとはおそらくヴォメロ地区を任せているヴェルメンティーノのことだろう。幹部候補の一人でミスタ直属の部下になる。
 ギャングの名を出されては誰も迂闊に手出しはできない。

「へえ、ヴェルメンティーノの。そりゃオカシイな、彼は子供を使ってケチな犯罪をするような男じゃあない」

 ぼくが言うと、少年たちの顔色が変わった。悪ぶっていてもふいをつかれた顔はまだ子供だ。

「おまえたちは今「ギャング」の名を騙った。それはおまえたちが考える以上にヤバいことだ。覚悟するんだな……相応の報いを受ける覚悟をだ」

 少年たちはさっと視線を交わし、次の瞬間四方に散った。もちろん逃がすわけもなく、位置的に遅れを取った少年の肩をつかんだ。
 切っ先が一閃する。それを身を仰け反らせて避け、少年の手首をつかんでねじ伏せる。同時にナイフを植物に変えた。

 植物はぐんぐん育って少年に巻きついたまま二階建ての高さまで成長する。すぐにミスタに連絡を取り、ヴェルメンティーノを寄越すよう伝えた。

「たっ、助けてよ……ジョーイに命令されて仕方なくやったんだ」
「言い訳はこれから来る男にすればいい」
「殺されるよ!」
「自業自得ってヤツだ」

 残り三人の素性を吐けば命までは取らないだろう。その後、少々キツめのお仕置きをされるだろうが、それこそ自業自得だ。
 二階の窓から顔を出した老婆が驚いて引っ込む。少年は成長した樹木と一体化したまま声をあげて泣き出した。

 逃げられないと判断してその場を去ると、慌てた様子で靴音が追いかけてきた。

『あの、ちょっと……待ってください!』

 立ち止まり、振り返ると先ほどの少女が駆け寄って来た。切れた息を整え終わると顔を上げる。

『えっと、あの、グラッツェ、です』
『日中でも一人歩きは危険ですよ。特に日本人は』
『えっ』

 狙われやすい、と続くはずの言葉は少女の声にかき消された。黒真珠のような瞳が見開かれている。

『日本語喋れるんですか?』
『ええまあ、半分日本人ですから』
『えー!そうなんですか?ぜんぜん見えないです』

 以前にもこんな会話をしたことがあった。
 顔立ちが似ているわけでも年齢が近いわけでもない。それでも少女の風貌はの姿を彷彿とさせ、心臓が強く脈打った。
 彼女が出て行ったのはもう半年近く前だと言うのに、痛みは今もまだはっきりと自覚できるほどに鮮明だ。

『ユミ……!あんたどこ行ってたの!心配したんだからね!』

 遠くから呼びかける声に少女が顔を向ける。よく似た顔立ちの女性が現れた。

『お母さん!』
『勝手な行動は止めなさいって言ったでしょ!何かあったらどうするの、ここは日本じゃあないのよッ』
『違うよ、お母さんたちが勝手にどこか行ったんじゃない』

 言い合いをしながらも再会を喜ぶ母娘は微笑ましく、ぼくは邪魔をしないよう立ち去った。
 ゆるやかな坂道を登りきると深い緑の中に観光名所の一つでもあるカステル・サンテルモが姿を現す。
 軒を連ねるカフェやバールやトラットリアの中から比較的空いてそうな店を選び、簡単な昼食を取りながら、以前彼女と交わした会話を思い出していた。

 ーえ?ジョルノ日本人なの?ウソでしょ!?
 ーぼくの話聞いてます?半分だけですよ、母親が日本人なんです
 ーえーぜんぜん見えないわ、もっと早く言ってくれたら良かったのに
 ーもっと早く言っていたら、何がどうなったんです?
 ーそうね、もっと早くジョルノを好きになったかもしれない
 ー関係ないですよ。だってあなたは結局ぼくを愛しているんですから

 は奥ゆかしさと潔さと可愛らしさを持った女性だった。
 ぼくの仕事は昼夜を問わず忙しく出張も多い。出会ってから同棲をはじめるまでにそう時間はかからなかった。
 すれ違いばかりの毎日でも彼女はいつも笑顔で待っていてくれた。ぼくはそれに甘え、結果として彼女の気持ちの変化に気づけなかった。

 食事を終えて店を出ると、帰り道は遠回りをしてみることにした。住み慣れた街でも一本違う路地を選べば新鮮で、随所に新たな発見がある。無造作に設置された騎士像や小さな噴水、はためく洗濯物などを眺めながら歩いた。
 車の入れない細い路地を道なりに進んでいると小さな花屋を発見した。店先には鉢植えや色鮮やかな切り花が陳列棚に飾られている。
 ぼくが足を止めたのは、が買ってきたものと同じ観葉植物をそこに見つけたからだ。

「フェイジョアは人気のガーデン樹ですよ。サイズもありますので言ってくださいね」

 その声に鳥肌がたつ。ゆっくりと振り返ると黒いエプロンの女性と目が合った。彼女ははっと表情を変え、両手で口元を覆う。手にしていた伝票の束が足元に落ちた。
 こんな偶然があるものだろうか。神のいたずらなのか、それとも奇跡と呼ばれるものなのか。できれば後者であって欲しいと願う。

「君が育てていた」
「え?」
「植木が見事に全部枯れました」

 彼女は強張った表情のまま、足元の伝票を拾い上げる。落としていた視線を上げ、ちょっと困ったような顔をした。

「水、ちゃんとあげなかったの?」
「ええ」
「まさか……一度も?」
「雨なら降ったかもしれません」
「そんなことじゃないかとは思ったわ」

 彼女は息をついた。人目を気にしてなのか、陳列棚の脇の死角に入る。ぼくも後に続いて、うつむくの顔を覗きこむように見つめた。

「表にあったフェイジョアをください。もう二度と枯らしたりはしません」
「……」
「ぼくは君が大切に育てていた植物の名前さえ知らなかった。いや、知ろうとはしていなかった」
「そうでしょうね、ジョルノは私のことなんて」

 の手を取って握った。意外にも振り払われたりはしなかった。ただ、唇だけが震えていた。

「同じことは決して繰り返さない。戻って来てください、君じゃなきゃあダメなんだ」
「……ジョルノ」
「君をどうしようもなく、愛しているんです」

 それにようやく気づいた。
 ぼくはブチャラティのような万能な人間じゃない。日々に追われて大切な女性一人幸せにはできないような要領の悪い人間だ。そのくせ嫉妬深く、彼女の耳たぶで揺れる見覚えのないピアスに胸がざわつく。
 新しい男がいるのかもしれない。いてもおかしくはない。

「離して、ジョルノ」
「嫌です」
「もうすぐ店長が帰って来るの」

 言葉の裏を探り、心臓がゆっくりと冷えていくようだった。そんなぼくの考えを見透かすようにが言う。

「言っとくけど、店長は既婚者で奥さんはとってもカワイイ人よ」

 だから離して、と静かにつぶやく。

「それに、違うわ」
「え?」
「ベランダで育てていたのはクチナシとオリーブよ。フェイジョアじゃあないわ」
「そうなんですか」
「ぜんぜん似てないじゃない」

 が唇を尖らせて否定する。ぼくにはクチナシもオリーブもフェイジョアも見分けがつかない。

「じゃあ、これからは教えてください。あなたがぼくに」
「帰って、仕事中なのよ」
「それなら仕事終わりにまた来ます」
「予定があるの」
「それなら明日に」
「明日もよ」
「それなら明後日に。時間の許す限り、何度だって会いに来ます。ぼくはもう決してあなたを諦めたりはしない」

 は困惑の表情を浮かべていたが、引き結んでいた口元をゆるめ、軽く目を閉じた。それから素っ気ない声で言う。

「迷惑よ」

 だけどぼくは知っている。彼女がこの表情をするときはもう相手に心を許しはじめていることを。光にも似た予感に胸が詰まった。




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