よるのくに



 ダークブラウンの家具で統一された執務室には大きな出窓が二つある。三面のガラス窓で、夜も深まった今はネアポリスの夜景がなだらかな丘陵に沿って広がっている。
 は奥側の方の出窓の天板に膝を抱えて座り、ぼんやりと夜景を眺めていた。

 ジョルノは執務の傍ら、時折彼女に目をやる。数十分前に見た時と寸分違わぬ姿がそこにあり、彼は小さく息をついて再びディスプレイに向かう。
 明日のスケジュールをチェックして、国内の主要都市を仕切る各幹部から届いた定期報告のメールに目を通す。それらが終わるとデスク脇のボックスに入った報告書や封書を改める。同盟組織からの会食の招待状がいくつかあり、彼はペン立てから万年筆を取って優先順にチェックした。

 一息つき、眉間を指で軽く揉む。ふと目を向けるとと視線が交わった。まるで獣のような瞳に射すくめられ、ジョルノは数秒動きを止める。

「忙しそうね」

 その声にはかすかな非難が含まれている。ジョルノはチェアを回転させて腰を上げた。
 頭上のシャンデリアが暖色系の光を灯す。室内に音はなく、ジョルノの腹心グイード・ミスタも、参謀パンナコッタ・フーゴも、その他の部下もすでに帰路についている。正確には夜勤の数人が残っているが、屋敷は広く、気配を感じる距離にはいない。

「そういえば、そろそろ二週間が経ちますね」

 あたかも今気づいたような調子で言うと、ジョルノは指でネクタイを緩める。の座る出窓まで歩くと隣に浅く腰掛けた。
 ついた手のそばに彼女のつま先がある。ほっそりとした足首から続くふくらはぎのライン、その先はスカートに隠れている。肌は抜けるように白い。

「ジョルノ」

 名前を呼ばれて顔を上げる。は膝を崩すとジョルノの方へ身を乗り出した。夜景を映してちらちらと揺れる瞳は血のように紅い。そこに熱は感じられず、鋭く澄んだ冬の夜気のようだと彼は思う。
 ゆっくりと回された腕がジョルノの首にかかり、逃がさないとばかりに引き寄せる。は彼の金糸のような襟足と上質なシャツの間に垣間見える、男にしては肌理細かな首筋に牙を立てた。ところが、ジョルノがすんでのところで彼女の額を抑え、押し戻す。無理やり引きはがされたは不満げに目を細めた。

「まだですよ。ぼくはまだいいとは言っていない」

 ジョルノは言いながら、目の前の女の瞳から正気が失われつつあるのを感じた。それでももう少しだけ、引き伸ばしたくなる。

「何か、言う事があるでしょう?」
「欲しいの」
「そうですね。他には?」

 の唇がかすかに動くが、言葉にはならない。言うべき言葉を探してたどり着けず、途方に暮れている。彼女は膝の上でこぶしを握った。

「そういうの、やめて」
「そういうの、とは?」
「だから、そうやって、焦らして……意地悪するの」

 今度はジョルノがの頭を抱え込む。彼女の頬がシャツ越しの、すでにほぼ成長を終えた逞しい胸板に押し付けられる。ジョルノはもう一方の手で、の後頭部を丸みにそって一度だけ撫でた。は逃げるでもなく身を任せている。
 彼女の体温は低いが決して死人のような冷たさとは違う。それでもその違いが、人と人ではないものを隔てているように思える。

 腕をそっと開いて開放すると、ジョルノは緩んだネクタイを引き抜き、シャツのボタンを三つ目まで外す。襟元を大きくはだけさせると「どうぞ」と言った。
 の瞳に興奮の色が宿り、再びジョルノにしがみつくと、今度はしっかりと、やわらかな肉に二本の牙を突き立てる。それはつぷり、と音をたてて沈み込む。
 遠慮もなく乗りかかってきたせいで後ろに倒れそうになるのを、ジョルノは後ろ手をついて支えた。は喉を鳴らしながら夢中で貪っていて、首筋がじんわりとあたたかくなる。
 ジョルノは彼女の背中に手を回し、頸椎を下って尾骨まで手を滑らせる。は一度身震いしたが、構わず「食事」を続けた。

 止まった時間を生きるとはいったいどういうものなのだろう。
 夜のネアポリスを横目に青年はそんなことを考える。

 の外見はジョルノと同年代、もしくはもう少し若く見える。それは彼女の時間が止まった年であり、少なくとも20年近くはそこから姿を変えてはいない。

 ジョルノが仲間と共にディアボロを討ち、新たなボスの座につき多忙ながらも充実した日々を送り、ようやく多少の余暇を楽しめるようになった頃、彼は自分の母親に子種だけを残して消えた男のことが気にかかった。
 15歳のころとは違う。ジョルノ・ジョバァーナの手には彼が考える以上の権力があり、彼はそれを行使した。
 父親の痕跡を求めてカイロへと赴き、そこでと出会った。彼女は光の届かない薄暗い屋敷で一人、帰らぬ男を待ち続けていた。

 ジョルノは物思いにふけっていた意識を戻し、今も貪欲に貪り続けるの肩を軽く押す。

「そろそろいいですか」
「ん……っ、まだ」

 彼女は息を継ぎながら上ずった声で言う。ちりっとした痛みと共に牙が更に奥へと沈んだ。
 少しばかり退屈になった彼は、の腰辺りを撫でていた手をスカートの中に差し込んだ。太腿の肉に指を這わせ、食い込ませる。抵抗しないのをいいことに更に押し進めると、はたまらず身を離した。ジョルノの上にまたがったまま、膝立ちで睨みつける。

「そういうのもやめて」
「注文が多いですね」
「セクハラよ」
「あんたがぼくの血を吸いつくそうとするからだ」

 は血濡れの唇を手の甲でぬぐう。しかつめらしく眉をひそめているが、息は上がり、肌は上気していた。隠しきれない恍惚が瞳を潤ませている。

「そんなに美味しかったですか、ぼくの血は」
「ええ……」

 ジョルノは手を伸ばし、の口端に残った擦れあとを親指でぬぐい取る。それをぺろりと舐めてみたが、かすかな鉄臭さと不快感しかない。

「美味しいとは、正直思えないな」

 その様子を興味深く見ていた顔が、はっと表情を変える。ジョルノが首をひねって見ると、シャツに一つ血痕があった。

「どうしよう……ごめんなさい」
「いいですよ、これくらい」
「気をつけていたんだけど……」
「そんなに悪いと思うなら、お詫びにキスの一つでもしてくれませんか」

 の手の甲を、ジョルノの指が催促するようにとんとんと叩く。
 大量の血液を失ったあとの浮遊するような感覚と倦怠感がまとわりついている。もちろんあとで血液を作って補充するつもりだが、その事実を彼女は知らない。だからこそ、二週間に一度という申し出を受け入れている。ジョルノのゴールド・エクスペリエンスなら毎日与えることも可能だが、彼にその気はない。

 息の詰まるような沈黙のあとで、がジョルノに身を寄せて頬に口づけをした。ごく一瞬の、触れるだけのキスだ。憎まれ口で一蹴されると考えていたジョルノは虚をつかれ、次の言葉に手間取ってしまう。
 はすばやく身を引き、白い脚を床に下すとつま先をパンプスに収める。その一連の流れをジョルノはぼうっとしたまま目で追った。

「……出かけるんですか?」
「少し風にあたって来るわ」
「敷地内からは出ないでくださいね」
「目のこと?もちろんコンタクトはするわ」
「いえ、そういう意味ではなく」

 この屋敷はネアポリスの街を一望できる高台に建つ。比較的治安の良いエリアだが、深夜の女性の一人歩きはさすがに推奨できない。
 そんなジョルノの心配に気づいたは、捕食者を思わせる紅い瞳を彼にひたりと据えた。

「私は人間ではないのよ」

 それにもう満腹よ、と付け足す。人を襲う気はない、と彼女は暗に言っている。「少し待ってください」ジョルノはそう返すと執務室の奥に続く別室に消えた。新しいシャツに袖を通しながら現れる。

「ぼくも付き合いますよ」
「忙しいんじゃあないの?」
「それなりには。ですが息抜きも必要だ」

 二人は屋敷を抜け出して入り組んだ路地を歩き、石畳の階段を下り、深夜営業中のカフェテリアに入った。部下に一言伝えるべきだとは進言したが、ジョルノはそれを聞き入れなかった。護衛にぞろぞろ着いてこられるのは面白くないと感じたからだ。
 斜面に張り付く様に建てられた店には広いバルコニーがあり、晴れていればヴェスヴィオ山や美しい地中海が臨めるはずだ。今は宝石を砕いて散りばめたような夜景だけが広がっている。

 ジョルノはエスプレッソを、はワインを注文した。
 は血液以外を口にしないが、なぜかワインだけは飲むことができた。それ以外は食事はもちろん、カフェインも口にしない。

 ジョルノはデミタスカップに口をつけながら、の視線を感じていた。咎めるような目でもなく、欲しがるような目でもなく、ただじっと見つめてくる。視線を交えれば逸らされることはわかっているので、彼は敢えてそのままにしておいた。

 彼女は時折こういった目を向ける。
 ジョルノ・ジョバァーナの夜に映える黄金色の髪、伏せた長いまつ毛、ひんやりと冷たい艶のある瞳、程よく高い鼻筋、やや厚みのある唇。誰もが魅了されるような横顔に、よく似た違う男を投影している。彼女はかつての主人を今も変わらず慕っており、ジョルノはそれを理解した上でをこの地へと連れて来た。

 しかし、理解と納得は違う。現に今、ジョルノの胸はさざ波のようにざわつき、苛立ってすらいる。無駄は嫌いなんだ、彼は内心でつぶやくが、どうにもできない感情だった。
 湿度を含んだ風が二人の間を通り抜ける。静かな夜が深まっていた。





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