吐息だけを残して
――彼はウソをついた
――私もウソをついた
「少しばかり家を空けるが、必ず戻って来る。君はここで待っていてくれ」
(世の中に必ずなんて言葉は存在しない。オレはもう、ここへは戻らないかもしれない)
「気をつけて。あなたの信じられる道を歩んで。私はここでずっと待っているから」
(行かないで、お願い行かないでブローノ。あなたは行ってはいけないわ、お願い……)
黄金の髪をした少年が懐から取り出したのは泥のついた封筒だった。
「これは、ブチャラティのスーツから出てきたものです。申し訳ありませんが、開封してあります」
封筒に宛名はなく、開封するのは当然だと思えた。
はそれを黙って受け取ると少しの時間見入っていた。付着したそれが泥ではなく、血液なのだと彼女は気づくが、想像していたような、例えば足元から崩れ落ちるようなショックは感じなかった。赤、というよりは赤褐色に近い汚れが時間の経過を知らせている。
飾り気のない封筒を開封すると、中には折りたたまれた便箋が一枚収まっており、文末に「親愛なるへ」という文字を見つけた。
が目を上げると立ち竦んでいた少年が沈痛な面持ちでうなずく。
彼は玄関先から動く気はないようで、もその場で文面に目を通した。挨拶もなく、文章は唐突に始まっていた。
この手紙を実は、君の寝顔を見ながら書いている。
今日は君とイオニア海に沈む夕陽を見ることができて、とても満たされた一日だった。
君と出会えたことで、愛されたことで生き急ぐ自分を振り返ることが出来た。言葉では言い尽くせないほど君に感謝している。
オレはいつか死ぬかもしれない。
そうなった時に悔いがないよう、この手紙をしたためることにした。
君がこれを読むのは1年後か、10年後か、それはわからない。
願わくば、これが一生君の元へ届かないことを祈る。
万が一届いたのならば、オレの死が君に優しく届いていることを切に願う。
おそらく君はオレの死を悼んでずいぶんと泣くのだろう。それを思うと胸が痛い。
だが泣くのは今日だけで、明日からは君は君の道を生きなければならない。
オレのことは忘れてくれていい、でなければ先へ進めないからな。
そしていつか、君に再び愛し愛される相手が現れることを心より祈っている。
親愛なるへ、感謝を込めて
ブローノ・ブチャラティ
「とても、言い難いのですが」
少年は重苦しい声で口を開く。
「彼の葬儀はすでに終わっています。あなたに連絡がつかなかったものですから」
それはそうだ。
は嫌な予感に身を焦がし、帰りをただ待つだけの時間に耐え切れず、しばらく家を空けていた。誰にも告げず、連絡手段も絶って。
「もしも、ぼくがこの場にいるというだけでも苦痛でしたら……出直します」
そう言って目を伏せる少年を前にして、は理解する。彼もまた、心まで凍てつきそうな寂しさの中にいるのだと。
眉根を寄せ、口元を歪め、苦悶する表情は、なぜか不思議との心を温かいもので満たした。
この少年はきっと、ブチャラティの死後にこの手紙を見つけ、彼の交友関係を調べ、の自宅を調べ上げ、彼女が帰宅する今日まで毎日足を運んでいたのだろう。
「愛してる」
「え?」
「愛してる、がないの。スゴクあの人らしいわ」
「どういう意味です?」
少年は不思議そうに目をしばたかせる。
堂々とした立ち姿だが、肩のラインやふとした仕草がまだ幼い。はしばらく虚空を見つめ、やがてつぶやいた。
「文中にね、おまえを愛してる、だとか愛してた、だとかの文字がないの。スッゴクあの人らしい」
「ですが……彼はきっとあなたを」
「どんな最期だったの?彼は、ブローノは」
澄んだ瞳がうち震える。
彼もそんな目をしていた。澄み切った、何物にも侵しがたい程の美しい空の色。
「……気高く、誇り高い、最期でした……ッ」
双眸からじわじわと涙があふれ出し、頬を濡らし、ぽたりぽたりと足元に水滴を落とす。
彼はきっと自分の信じられる道を歩んだ。それで命を落としたのだから、納得の上の死なのだ。
愛の言葉がないのは彼なりの優しさだ。
これから新たな人生を歩むの枷にならないよう、繋ぎとめる鎖にならないようにと。
「だけどブローノ、もう手遅れなの」
薄っぺらい紙切れでしかない便箋からは微かな血の匂いと、愛しい男の息遣い。それを口元にやって唇を押し当てると仄かに冷たさを感じる。
「手遅れなの、ブローノ、私にはもう、あなたしか……」
どれだけ時間が経過しようともこの喪失感は埋まらない。他の誰でも埋められない。あなたしかいない。
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