Kiss×××××



 目が覚めて、隣にあの人がいないことに気がついた。たわんだシーツはそこに眠っていたはずの男のなごりを残している。腕を伸ばして触れるとまだ少し温かく、その体温にくるまってもうひと眠りしたくなった。

「……ああでも、起きなきゃ」

 手の甲で目を擦り、のろのろと上体を起こす。まだ覚醒しきらない意識でぼんやりと窓を見た。ガラスに雨粒がついている。耳を澄ませばしとしとと雨音もした。

 壁時計はまだ早起きの部類に入る時間帯を差している。こんな日はだらだらと眠り続けたい。だけど一人のベッドは少しさみしい。

 寝室を出て、しっちゃかめっちゃかになった髪を手櫛で伸ばしつつ洗面所に向かう。寝ぼけていたせいで途中二度ほど壁にぶつかった。
 しゃかしゃか、という耳障りの良い音が廊下に漏れている。思わず微笑みつつ、バスルームのドアを開けた。

「おはよう、ブローノ」

 鏡越しに合った目が優しく細まる。喋れない彼は軽く手を上げて応えた。
 服装こそリラックスしたホームウェアではあるけれど、背筋をまっすぐに伸ばした立ち姿は凛として、きれいに切りそろえられた髪は寝癖一つない。彼の生真面目な性格を表すようなキッチリとした動作で歯磨きをしている。

 唇の端に歯磨き粉がついていて、生クリームみたいだと思った。舐めたらおいしいかしら。いやいや、鼻がつんとするよ。歯磨き粉だもの。そんなことを取り留めもなく考えていると、ブローノが位置をずれて私のための場所を空けてくれる。

 朝から涼し気な彼の横に、腫れぼったい目とむくんだ顔、手櫛ではどうにもならなかった寝癖だらけの女の姿が映る。その対比に残念な気持ちになる。
 一本だけでさみしげな歯ブラシを取って、チューブを捻る。残り少なくなっている。買い置きあったかしら。思い出しながら歯磨きをした。

 隣では、歯磨きを終えたブローノが腰をかがめてうがいをしている。終わると次はうっすら生えたひげをフォームでそり始めた。

 ブローノは例えばこんなふうな作業をしているときですらとびきり男前だ。
 惚れた弱み?恋は盲目?歯ブラシを持つ手の角度を変え、奥歯をみがく。

 しゃかしゃか、しゃかしゃか。

 ブラッシングを繰り返していると、、と名前を呼ばれた。ブローノはひげをそり終えていて、すっきりつやつやの顔で言う。

「不思議なんだが、オレはその音を聞くと心が休まるんだ」
「ひょのほほ(そのおと?)」
「そうだ。……いや、案外、オレは君のたてる音全てで幸せになれるのかもしれないな」

 半開きの口から歯磨き粉が垂れる。朝から心拍数が跳ね上がった。うがいを済ませ、日なたの匂いのするフェイスタオルで顔を拭く。

「それは、ね、私も一緒よ」

 ブローノは目尻を少しだけ下げて、照れ隠しでいつまでも顔を拭き続ける私のおでこに短いキスをくれた。

「あと少し。そうだな、あと30分ばかり、寝坊をすると言うのはどうだろう」
「うれしい、私もそう言おうと思ってたの!」

 二人で指を絡ませて寝室まで戻るとベッドという名のまどろみに落ちた。







 お向かいに住むシロウからお土産をもらった。
 彼はジャッポネーゼで、ファーストネームはケンシロウと言うらしいのだけど、みんな愛称のシロウで呼んでいる。なんでも彼の母国ではケンシロウは最強の男らしく、シロウはその名で呼ばれるのがあまり好きではないらしい。
 お土産は大きなビニール袋に入っていて、取り出したそれは不思議な形をしていた。

「なんだ、それは」

 新聞に目を通していたブローノも、興味を引かれたのか顔を向けてくる。

「シロウがね、帰省してたんだって。それで、お土産をもらったの」
「そうか、礼を言わねばならんな。しかし、それは何に使うモノなんだ」

 彼は新聞を折りたたむと腰を上げ、私の背後までやってくる。テーブルの上に広げたそれをまじまじと見た。

「こいつは、洗濯バサミだな」

 ブローノが一つをつまんで言う。

「物干しハンガーって言って、これに洗濯物を干してそのままベランダに干せるんだって」
「そいつは便利だな。急な雨でもスグに取り込めるわけだ」
「そうなの、洗濯紐だと全部取り込むうちにびしょびしょだもの」

 私は持ち上げた水色のポリプロピレン製角型物干しハンガーを仰ぐように眺める。上にストッパーがあり、角型の骨組みから洗濯バサミがいくつもぶら下がっている。タオル干しや室内物干しなんかは見たことがあるけれど、そのまま外に干せるタイプははじめて見た。

「ジャッポーネには便利なモノがあるんだな」

 サムライとスシだけじゃあないんだな、とブローノが笑う。

「サムライはもういないのよ、今はもうヤマトナデシコしかいないんだから」
「そうなのか、は物知りだな」
「ああ……!早く雨が降らないかしら」

 ふくらんだ期待がしぼまないうちに早く使ってしまいたい。物干しハンガーをうきうきしながら見ていると、ブローノが私の手からそれを取り上げた。テーブルにそっと置く。

「ブローノ?」
「シロウは確かアルミジャーノが好きだったよな。今度買って行こう」

 そう言いながら私の手の甲に唇を落とす。なんでもない日常に心が満ち足りていくのを感じた。







 ブルーチーズもとうもろこしの粉も冷え込む朝も嫌いだけれど、それよりも何よりも一番嫌いなもの。それがストライキだ。そしてそれにすっかり慣れてしまって、怒りすら覚えない国民たちにも。

「ちょっとくらい賃金が安いからって、何回ストライキすりゃあ気がすむのよ!」
「落ち着け、確か臨時便が出るハズだ」
「わかってる、だけどスッゴク混むじゃあない!」

 ストライキ情報は大抵運輸省から発表される。だから旅行客はそれを避け、日を変えられない人はのんびりカッフェでも飲みながら待つ。だけど私たちはちょっと、かなり、事情が違う。

「せっかくあなたが休みを取ってくれたのに、次いつ休暇が取れるかわからないのに」

 私の大切な人はギャングで、昼夜を問わず働いている。そのぶん朝はゆっくりめだけど、日によっては早朝から出かけることも少なくない。週末が休みの私とは違い、彼には決まった休日なんてないのだ。

「よしわかった、今日は家でのんびり過ごそう」
「イヤよ」
「じゃあ買い物でも行かないか?君が欲しがっていたフライパンを買いに行こう」
「あれもう買ったもの」
「……そうなのか?気がつかなかったな」
「ちなみにソファのカバーも先週換えたの、ブローノは全く気づいてなかったけど」
「今日は、良い天気だな」
「昨日の夜のビステッカ、ソースにリンゴペーストを混ぜてたの」
「何だって!?」
「嘘よ、ほんとはマンゴーペーストよ」

 そこでアナウンスが流れ、レッジョ・ディ・カラブリア行き臨時便がこれから三時間後に出発する旨を伝える。途中乗り換えてカタンザーロへ行く予定だったのだけど、ついたらもう夕方だ。

「良かったな、イオニア海に沈む夕陽には間に合いそうだ」
「え?行くつもりなの?」
「もちろんだ」
「でも……帰りの便はないんじゃあないかしら」
「そうなったら、そうだな。車でも盗んで帰るか」

 冗談とも本気ともとれるような顔で笑う。
 結局私とブローノは、ガルバルディ広場のオープンカフェでランチをして時間を潰した。途中何人もの通行人が彼に声をかける。

「よう、ブチャラティ、調子はどうだい?」
「元気かい、ブチャラティ」
「後で寄って行けよ、ブチャラティ」
「聞いとくれよブチャラティ、実は孫がね」

 ブローノがギャングだと知っていて、それでも彼の人間性に惹かれて集まる人々は多い。

「三時間なんて、あっと言う間ね」

 自分が愛している人が皆からも愛されているのは嬉しい。自然と頬がゆるんだ。

「私も昔みたいにブチャラティって呼んでみようかな」
「それならオレも君をファミリーネームで呼ぶとするか」
「ダメよ、それはダメ」

 ブローノはデザートのプディングをスプーンですくう。これは店主からのサービスで、今飲んでいるワインもそうだった。

 ちょっとばかり飲みすぎたせいで車中気分が悪くなり、ブローノが買ってくれた胃薬を飲んだ。おかげで到着した頃には快調で、水平線ににじむ、胸を焦がすような夕景をしっかり堪能することができた。

「少し、冷えてきたな」

 陽が沈むととたんに辺りを薄闇が包む。

「今日は、とても良い日だったわ」

 駅まで戻る道すがら私が言うと、彼は「そりゃあ良かった」と微笑んだ。

「たぶん、私はあなたがいればいつだって良い日なのよ」

 つないだ指先に力をこめると、それよりもやや強い力で握り返される。彼は前方を向いたまま小さく笑った。

「それなら、怒らないでくれるよな」
「なんのこと?」
「復路の列車がないそうだ」

 駅構内の掲示板には大きな張り紙があり、そこにはでかでかと「全便運休」と記されていた。先ほど下車した際にはなかったはずだ。

「あ、でも……長距離バスがあるんだって」

 張り紙の下に小さく載った案内を見て安堵する。直後、私は目を剥いた。最終便まであと二分足らずしかなかった。

「ブローノッ、大変!急がなきゃ!どこ?バスターミナルはどこなの!?」
「ターミナルなら裏側よ、そこの連絡通路を抜ければすぐよ」

 慌てふためく私に通りすがりの婦人が教えてくれる。
 ブローノと二人連絡通路を走り抜け、発車寸前のバスにぎりぎりセーフで乗り込んだ。車内はがら空きで、私たちは一番後ろの長椅子に並んで腰を下ろす。

「どうしてこんなに空いてるのかしら」
「こんな日に遠出をする人間はあまりいないからじゃあないか」

 私は納得してうなずいた。わざわざストライキ中に遠出をする物好きはいない。

 バスは海岸線や山道をぬうように走り、時折大きく車体を揺らしながらスピードを上げる。

「戻ったら深夜ね、きっと」

 ブローノの腕が肩にまわり、私の頭を抱きこむようにして引き寄せる。私も遠慮なくもたれかかった。髪の毛に口づけをされる。吐息がくすぐったい。

「いつも、オレの予定で君を振り回してしまってすまない」

 頭上から落ちてくる声。普段の彼らしくない、少し自信のなさそうな声だ。空席の目立つ車内に目をやって、誰も見ていないことを確認してから顔を上げ、ブローノの顎にキスをした。

「仕方ないじゃない、私の恋人は忙しい人なんだから」

 でも、一ヶ月に一度しか会えないとかだと浮気しちゃうから、と付け足す。

「出張でもダメなのか?」
「そうねえ。じゃあ、毎日電話をちょうだい」
「もちろんだ」

 ブローノは苦笑まじりに微笑んで、私の前髪を摘んだり引っ張ったりしてもてあそぶ。浮気、なんて言ったからたぶん拗ねてるのだ。

 一年顔を見れなくても一生会えなくなったとしても、私はあなたしか愛せないのに。







「ブローノ!ちょっとどういうこと!」
「どうしたんだ、突然」
「この匂いはなんなの?どうしてあなたのスーツから香水の匂いなんてするのッ」

 ブローノは「え?」という顔をして肘を持ち上げる。ついた匂いを確認してから「これはな、アレだ、アバッキオだ」とわけのわからない返しをした。

「アバッキオさんが女性モノの香水をつけるの?それシャネルのアリュールオムじゃあない!」

 見え見えの嘘にムカついて詰め寄った。帰宅したばかりの彼を玄関扉に押し付ける。今ここで追及しなければうやむやになる、という可能性があった。けれど意外な反撃を受ける。ブローノの目が疑り深く細められた。

、オマエ香水は苦手だろ。なぜメーカーまでわかるんだ」
「……えっ、だから、ま、前に買ったことが」

 あからさまに動揺しているとブローノが私の頬をべろりと舐める。

「この味はウソをついている味だぜ?どこの男にプレゼントされたんだ」

 逆に詰め寄られ、上目遣いに睨むもんだから恐ろしいことこの上ない。

「別にいいじゃない、あなたと会う前の事なんだから。それにそんなこと聞くなんて無粋よ!」

 形勢の悪さを感じ、ブローノを残してさっさとリビングへと向かった。

 ブローノは聡明で理知的な男だけど、こと恋愛に関しては無神経なところがある。女の過去を追及するなんて無粋もいいところだ。舐めてウソがわかるだなんて怪しげな特技はあるくせに。
 そして、香水の件は結局うやむやにされている。納得がいかないけれど、またぶり返されても困る。

、悪かった」

 ふいに腕をつかまれ、身体が後ろへ引っ張られる。振り向くとそのまま抱きしめられた。

「言っておくがこの香水なら、誤解だ。説明するのがムズかしくってな」

 耳の上に声がかかる。鼓膜を揺らす甘い声。彼の腕が私の身体を包み込む。私は彼の服の裾をぎゅっと握った。

 本当はわかってる。浮気なら、こんなふうにべったり残り香付きで帰宅なんてしない。きっと彼は、私に指摘されるまでその匂いに気づきもしなかったのだ。誤解を与えるくらいなら始めから言わない方がいい、と考えたのかもしれない。だけど、私は彼の口から違うと言って欲しかった。

「もう、いいわ。でも嘘はつかないって約束して」
「ああ。約束する」
「あと、舐めるのもヤメテ」

 返事がない。彼の腕からすり抜けて目を向けると、生真面目に考え込む顔があった。

「それは、セックスの時もか」
「え?」
「それは困るな」
「……えっと、あ、そうそう!夕食、今夜はあなたの好きなホタテ貝のオーブン焼きよ」
「いつもありがとう。感謝しているよ」

 と、素知らぬ顔で言いながら、私のスカートをたくし上げ、あらわになった太ももを撫でる。指先が内ももをこすり、それから足の付け根へと上がって、ぞわぞわと寒気のようなものがこみ上げた。

「料理……冷めちゃうけど?」
「君の料理は冷めてもうまい」

 彼の視線が私の頬や首筋、その下へとたどるように移る。その瞳にはついさっきまではなかった情動が浮かんでいた。その顔を見てしまうともうダメで、私の性衝動も始まってしまう。

 顔を寄せ、額と額をこすり合わせ、二人で含み笑いをしてから唇を重ねる。心拍が上がり、胸の奥がちりちりとうずく。絡まる舌は熱を持って混ざり合い、瞳がうるみ、息が上がっていく。
 ここまで密着するともう身に着けた服はあってないようなもので、触れた部分からブローノの胸板の厚みや引き締まった腰、筋肉質な下肢の感触がしっかりと感じ取れた。私はベッドでの彼を想像して、そのしなやかな肢体を思い出して胸が熱くなる。
 ブローノの手が腰のラインをたどってわき腹、助骨へと滑る。きっと今の私の顔はどうしようもなく欲情して、恋い焦がれているはずだ。

 香水のことなんてもうとっくにどうでも良くなっていた。






 冬になると手荒れが酷くなる。ビニール手袋をつけて食器を洗っているのだけど、指先の感覚が鈍くなって何度もお皿を落としてしまう。それがイヤで結局は素手で洗う。

 お湯を使わずに水で洗えば少しはマシだけど、それでもあかぎれがひどい。痛々しく切れた指先に薬局で勧められたステロイド剤をぬる。これがかなりべたつくのでつけた後は何もできない。

「ブローノ、ごめん。チャンネル変えてくれない?」

 リモコンが持てないの。

「ブローノ、ごめん。ちょっとそれ飲ませてくれない?」

 カップだって持てない。

「ブローノ、ごめん。そのドア開けて」

 ドアだって開けられない。

「ブローノ、ごめん」
「次はなんだい?シニョリーナ」
「キスしてくれない?」
「喜んで」

 ブローノは薬剤のついていない手の甲に唇を寄せて、次に頬に、耳たぶに、唇に、甘くて優しいキスをくれた。




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