リトルクライベイビー



 電気の供給が止まって久しい廃ホテル、その一室にはいた。
 室内は薄暗く、淀んだ空気はかび臭い。歩くたびに埃が舞う中、彼女は窓際まで近づき破れたカーテンの隙間から外を伺う。調査通り、この位置からは遮蔽物もなく真っ直ぐに標的が見えた。その距離約千メートル。

 はキャリーケースを寝かせて開き、三脚と本体を組み立てはじめる。アルミアーロイのブラックボディが鈍い光を放つ。銃床を三脚に乗せた。
 彼女のいかめしい愛銃はレミントンのボルトアクション狙撃銃だ。弾は標準的なウィンチェスター弾で内臓式のマガジンにすでにフルの4発が装填されている。
 ターゲットの顔写真は事前の打ち合わせ時に脳裏に焼きついており、あとは標的が店から現れるのを待つのみだ。

 暗視スコープから狙いを定め、指をトリガーに置いたままその瞬間を待つ。相手は生身の人間であり、二時間で終わるはずの会食が三時間になることはままある。
 がスコープを覗いてどれくらいの時間が経過したのか、老舗の中華料理店の重厚なドアが開いた。護衛は四人、標的の周囲を取り囲むように歩いている。連携の取れた動きだ。

 標的に重なっていた護衛の位置がずれたほんの一瞬をとらえ、の愛銃が弾丸を放つ。

 標的の数秒後の動き、重力によってわずかながらに下降する弾道、天候や風などによっても干渉される弾の到着地点を割り出すのは至難の業だ。しかしの場合、ゼロイン(誤差修正)は必要ない。放たれた弾丸は遠隔自動操縦型のスタンドとなり、標的が絶命するまで追尾する。





 ブローノ・ブチャラティはの姿を見つけると、まず彼女の手元を見る癖がついた。
 夜半過ぎに自宅へ戻ったブチャラティが、玄関先で佇むに気づいたときも、やはりまずはその手元に目を向けた。
 彼女の手には黒いキャリーケースが引かれている。つまり彼女は今「仕事帰り」なのだ。

「突然来ちゃって……ごめんなさい」

はやや緊張した口調で言う。

 「構わないさ。入れよ」

 ブチャラティはそう言うと、を部屋に招き入れる。
 この部屋を訪れるのは一度や二度ではないのだが、彼女はいつも緊張している。そして、ブチャラティが受け入れた瞬間にほっと小さく息をつくのも同じだ。

は部屋に入ると定位置にキャリーケースを置き、真っ先にステレオに向かう。

「音楽かけていい?」

 ブチャラティの了承を得て、お気に入りの一枚をセットする。すでに日付が変わっており、彼女は慌ててボリュームを調節した。

 二人は安いテーブルワインを飲みながら、スピーカーから流れるサウンドに耳を傾ける。ブチャラティはソファで、はブチャラティの足元で膝を抱えて座っている。
 彼女は時々メロディを口ずさみ、ブチャラティの片膝に頭をもたせかける。そこから伝わる体温は彼女の心を安定させる。けれどがそれ以上のぬくもりを彼に求めることはない。

 ブチャラティは一度、仕事中のに遭遇したことがある。正確には仕事の前、これからターゲットを始末しに行くというときだ。足の運び方、呼吸の仕方、周囲への警戒、それら全てに一切の隙がないのに、酷く無機質な目をしていた。
 今はただ、まとわりつく子犬のように彼の足に身を寄せている。無防備に体重を預けてくる女をブチャラティは静かに見下ろす。頭に手を乗せるとが彼を見上げた。

「……明日は?朝早いの?」
「いいや」
「そう。ならもう少しこのままで」

 は傍らに置いたグラスに手を伸ばした。彼女好みの、渋みの少ないフルーティな味わいが喉を通る。

「私、もう人を殺したくない。ブチャラティのチームなら良かったのに」
「オレのチームも殺しはやるぜ」
「私のチームは殺ししかやらない」

 はグラスを再び置き、もたれていた身体を起こす。

「今のチームに不満はないのよ。新人をイビッてくるようなメンバーはいないし、それほど打ち解けてはいないけど疎外感もない。私にくる仕事は簡単な案件ばっかりで、殺るのはどこかの議員とか要人とかだし」
「オレたちはギャングだ。殺しも仕事に含まれる」
「わかってるけど……ねえ、移動を願い出てみようかな。あのハゲ幹部に」

 の能力は「狙撃」だ。今以上にその能力を活かせる場所はない。彼女自身がそれを誰よりも理解し、諦観している。
 きつく引き結んでいた唇が何かを言おうと動く。ワインで艶やかに濡れていた。

「私、あなたのチームがいい。あなたのためならなんだってできる。殺せと言われれば殺せる。この国の未来にとって必要な人望ある指導者でも、ただの優しい花屋のおばあちゃんでも、小さな子供だとしても」

 ブチャラティは背もたれから身を起こすと、足元でうずくまったまま動かないの頭に手を添え、自分の方へ引き寄せる。
 は泣いていた。その澄んだ瞳から、大粒の宝石のような涙をこぼして。
 声は徐々に大きくなり、ついには外聞もなく泣きじゃくった。ブチャラティにはそれが、まだ諦めたくないのだと叫んでいるようにいつも聞こえるのだ。


 ステレオから流れる音楽が一巡してまた最初から繰り返す。
 はひとしきり泣くと、両腕を伸ばして背伸びをした。そのまま立ち上がり、やけに晴れやかな顔で言う。

「ブチャラティ、ありがとう。スッキリしたー」
「そいつは良かった。もう一杯飲むかい?」
「ううん、もういいよ」

 ブチャラティも立ち上がり、味気ないラベルの貼られたボトルに手を伸ばし、彼の口には少々甘ったるい液体をグラスに注ぐ。やれやれ、と内心で苦笑しながら。

 以前、ブチャラティはジャッポーネ出身の青年からこんな話を聞いたことがある。神に仕える者が己の穢れや過ちを悔い改めるために、あえて極寒の中滝に打たれるのだと。ジャッポーネではそれを禊(みそぎ)という。

 は殺して殺して殺し続け、均衡がとれなくなってくるとブチャラティの自宅を訪れ、散々泣いてすっきりすると、再び立ち上がる気力を取り戻す。これも一種の禊ではないのかとブチャラティは考えていた。

 このあとのの行動パターンは二つあり、あっさり帰ってしまうか、帰らず愛銃の分解掃除を始めるか。後者の場合、ほろ酔いで帰るのが面倒になってしまっている場合が多い。もちろん、二人がベッドを共にすることはない。それはが望んでいない。少なくとも彼はそう思っている。

「ねえブチャラティ、もう寝る?」

 言いながら、は部屋の隅に置いたキャリーケースまで歩く。後者だな、と彼は確信した。




text top